婚前特急

サラリーマン時代、最後の職場(転勤族だった)に美人の同僚がいた。僕の6歳下だったと思うが、かなり目を引くルックスの娘で当然のようにモテていたと思う。
僕は親しくていたわけでないし、いっしょに遊んだことも3,4回程度(スキーに行っただけ)だから彼女(M子さん)のプライベートがどんなだか知ることもなく、またたいして興味があったわけではなかった。


僕が脱サラする1年位前にM子さんが突然退職するという話が持ち上がったことがあった。
彼女は職場の人間関係で悩んでおり、それは僕を含め皆ある程度わかっていたことなのだけど、どうも彼女が溜め込んでいたストレスは我々の想像以上のもので、終には上司に退職の意を伝えたらしかった。
ただ辞める理由は言わなかったらしい。想像はついたんですけどね。
上司の口から、「M子さんが今月いっぱいで退職します」といきなり聞かされ、皆動揺した。
彼女が先輩のお局の執拗ないじめにあっていることは知っていたからである。
彼女からは特に報告的なものはなく、また送別会も段取りされないまま仕事の引継ぎのみを黙々とやってついに月末になった。朝、僕が出社すると彼女は既に自分の私物を整理していて、正に今日でお別れですという雰囲気を醸し出していた。
「おはよう。」
いつもの朝の挨拶を交わした際に彼女の視線がちょっとたじろぐほど強く僕に刺さった。
なんだ?と思いながらも僕は直ぐに視線を外したのだけど、彼女はずっと僕を見たままである。
で、僕も意を決した。
「M子ちゃん、ちょっといいかい。」
会議室に呼び、彼女の話を聞くだけ聞いてみようと思った。
が、何も話さない。しょうがないので単刀直入に訊いた。
「何で辞めるの?転職かね?それとも結婚するの?」
彼女は首を振った。
「N岡女史が嫌いなんだろ?もう、いっしょに仕事するのイヤかい?」
彼女は下を向いた。そして顔を上げると先ほどのように強い視線を投げてきた。
「そうよ。決まってるでしょう。」口には出さなかったが目ぢからで伝わってきた。
その後は彼女をなんとか説得し(取引先に営業する感覚だったな)退職を思いとどまらせたのだけど、それは実は全部M子さんのシナリオ通りにことが運んだにすぎなかったのです。
つまり、退職願を出してからその日までつまり土壇場まで誰一人自分に翻意を促すことをしなかったことで彼女はあせっていたのです。
何故僕だったか?
遡ること更に1年前、やはり同僚が辞める辞めないでバタバタしたことがあった。
その時に一番身近で相談に乗っていたのは僕だった。その人の能力を買っていたし、詳細は省くが理不尽な組織の対応に嫌気がさして、それに最後まで抵抗した結果の退職という選択をした彼に好感を持っていたから。
そのときの僕と彼のやりとりにM子さんは妙に熱心に関わろうとしてきた。
二人で飲みに行こうとすると意味もなく付いてきたし、後から考えれば観察されていたようにも感じる。
だからかな、M子さんはきっと僕が引き止めることを想定していたのかもしれない。というか意図していたのかもしれない。
彼女は職場環境に耐えられなくなっていてそれを改善するために一世一代の芝居を打ったということなのではないか。
ところが僕は彼女が考えるほど彼女に興味がなかったのである。
彼女のシナリオは狂い、本当に辞めなければならない状況に追い込まれて、彼女は開き直った。
「あんた、なんで私をシカトするの。おかしくない?」
あの日、結局M子さんを引き止めた朝、顔をあわせた後に話しかけるでもなく5分以上僕のことを睨み続けていた彼女の表情は未だに覚えているもの。それくらい鬼気迫るオーラが出ていた。

先日、10年ぶりに退職した会社の関係者の人から電話があった。
懐かしい昔話に花が咲き、お互いに近況を報告しあったのだが、ふと、M子さんのことを思い出したので、彼に聞いた。
「M子ちゃんって、今どうしてる?」
「まだ働いているよ、2年前に結婚して、子供が一人いるけど、意外と晩婚だったよね。」
結婚したのが35歳か、確かに意外な感じはしたけど。田舎だからね、綺麗な子はだいたい若いうちに結婚するので。
その時確信した。やはりM子さんの退職劇はすべて彼女が書いたシナリオだったと。

婚前特急」をWOWOWで観賞した。
コメディエンヌ吉高由里子は素晴らしく、僕はそれなりに楽しめました。
ヒロインは美人だけど性格はあまりよろしくない、まあ、どちらかというと感情移入しにくいタイプの女性に描かれているのだけど、そこそこのリアリティを持ったキャラであり言動をするので、「こういう娘、いるなあ」と納得できる部分もあります。
最もリアリティを感じる点は、やはり美人を鼻にかけ、身近な男性は皆自分に興味を持ち、それ故自分のペースで人間関係をコントロールできると誤解しているところ。
想定外に相手が自分に無関心であることがわかったときのキャラ崩壊振りが上手く描かれているし、吉高由里子はナチュラルにリアリティを醸す演技をしています。
相手役の不細工な男の子もいいですね。
完全な吉高由里子の引き立て役ですが、それはそれで良いのです。
決してダメ出しではありませんよ。