チャーリー・パーカーを描いたクリント・イーストウッド監督作品の『バード』をDVD鑑賞した。
僕は遅れてきたジャズファンで子供の頃はロックしか聴いていなかった。
この作品の中でも大衆音楽としてのジャズがR&Rに取って代わられる瞬間が描かれているが、より単純でキャッチーな音楽が一般受けするのは無理からぬことで、わかる人にしかわからない高度な音楽性という評価基準がそこにはほとんどないのだから。
そのシーン、サインを求めて殺到する観客の対応しているサックスプレーヤーは以前はコテコテのジャズマンだった。
例の有名な逸話(『セッション』でも取り上げられる)駆け出し時分のパーカーが演奏中にシンバルを投げつけられるシーンにも居合わせていたという設定がベタだ。
R&Rに鞍替えしてのド派手な演奏に唖然とするパーカーに気づき視線を向けるが、複雑な表情をするのが印象的だ。
決して勝ち誇っているわけではなく、どちかというと負い目を感じているような。
この作品は160分の長尺の中にこういう実際の逸話に基づいたシーンが散りばめられていて、そこを意識してディテイルを咀嚼しながら観れば楽しめるのかなと。
したがってジャズを好みチャーリー・パーカーに興味があるかどうかで評価が変わってしまう。
人物に興味が無ければ、ただ陰鬱で長いだけのしんどい160分になってしまうだろう。
近年の円熟した映画職人クリント・イーストウッドの作品と比較すると、彼個人のパーカーのジャズに対する思い入れが過剰なためかヘビーで肩の凝る描写が多い。
まあ結局チャーリー・パーカーのジャンキーぶりばかりが描かれてしまっているのだ。
フォレスト・ウィテカーの演技は悪くはないが、あまり似てないのが引っかかる。
癖のある演技が特徴のアクターだが、この作品では抑えめというか彼にしては薄味な印象だ。
あるいは演奏シーンでいっぱいいっぱいだったか。
一方で抜群の存在感を見せるのがチャン・パーカー役のダイアン・ヴェノーラ。
上手いね、この人。
ある意味狂言回しのポジションとも言える作品の中のキーキャラクターになっていて、彼女の秀逸な演技で大分救われている感あり。
パーカー夫妻の関係中心に描かれているのは、製作にあたりアドバイザーとしてチャン・パーカー本人に協力してもらったからのようだ。
エンディングでそのことが字幕で表記されて納得がいった次第。
キャッチ画像にツーショットを使ったのは、夫婦のストーリーとして整理すれば収まりが良かったからだ。
麻雀放浪記のドサ健とまゆみの関係を思い出した。
ヤクザキャラのチャーリー・パーカーはチャンを最後の砦のようにしか思っておらず、常に蔑ろにしているが、チャンはパーカーの才能に惚れ込み一途な面が垣間見える設定だからだ。
アメリカ人がこういう人間関係を描くのは珍しいのではないだろうか。
そしてパーカーを最後の最後までヤクザな奴として描き切るのではなく、
娘の死を知らされて嘆き悲しみ、一晩中チャンに電報を打ち続けるシーンがクライマックスになっている。
ただその場所が愛人の家というのがなんとも。
人種問題に関してどう描くのか興味があったのだが、そこはサラリと流している。
観客がそこを意識せずに済むように気を使ったのだろう。
公民権運動前のアメリカだから本当は色々差別問題があったのだろうけど。
盟友デジー・ガレスピーとの会話で、
「白人は黒人に対してルーズなイメージを持っているから、俺はそれを裏切るように時間も約束も守るようにしている。だから上手くやっていけるのさ。」
ガレスピーのそのセリフが多少人種問題に触れているかなという程度。